2024年6月、福島県南相馬市に「はらまちスマイルクリニック」を開業した山下匠先生。東京で生まれ育った山下先生は、さまざまな出会いが重なり、東日本大震災の影響で小児科の診療所がなくなったこの町に、家族とともに移住しました。毎日クリニックで、地域の子どもたちの健康を見守り続けています。
全2回のインタビューの前編となる今回は、山下先生が地域医療に携わることになったきっかけや、これまでの歩みについて聞きました。
「なんでも相談できるお医者さん」になりたかった
――山下先生が、医師を志したきっかけを教えてください。
山下先生(以下敬称略) 中学2年生のとき、母方の伯父が急に倒れて、数日後に亡くなりました。おそらく脳卒中だったと思うのですが、家族や親せきがあまりに急な訃報に動揺していた様子を見て、「家族の中に医者がいたら、こんなときに心強いのかな」とおぼろげに感じたことが医師を志したきっかけです。
また、私ときょうだいには小さいころからかかりつけの小児科の先生がいて、大学生になるまで診てもらっていました。幼少期だけでなく、思春期以降も変わらず受け入れてくれる先生の姿は、私のロールモデルになりました。子どもと家族に長く寄り添って、幅広く診られる医師になりたいという思いから、小児科医を志しました。
――医学部のなかでも、地域医療に携わる医師を養成する自治医科大学に進学したのはなぜでしょうか。
山下 自治医科大学は、医師が不足する地域で活躍できる総合診療医(患者の抱えるさまざまな問題を総合的に診て対応する医師)の育成を目的としています。特定の条件を満たせば学費がかからないのもポイントでしたが、「なんでも相談できる医師になりたい」という自分の将来像とも重なり、入学を決意しました。
卒業後は東京都の3つの離島で計4年間、島に唯一の医師として勤務しました。どの島も人口300人から500人くらいで、赤ちゃんから高齢者まで、手術と出産以外のあらゆる症状に対応する日々でした。24時間いつ呼ばれても対応しなければならない厳しさもありましたが、この人に任せれば大丈夫だと信頼してもらえる医師でいようと、責任感をもって診療にあたっていました。そうした経験は、今の開業医としての姿勢にもつながっています。
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離島生活ではぐくまれた、医師としての覚悟
――離島での勤務で印象的だったことはありますか?
山下 最初に派遣された式根島では、まだ独身だったこともあって、地域の方々が本当によくしてくれました。おばあさんが「ちゃんとごはん食べてるの?」と差し入れをくださったり、子育て世帯のお宅でのバーベキューや、小学校の副校長先生のクリスマスパーティーに招かれたり…。まさに島ぐるみで見守っていただいたような感覚です。
その式根島で、以前から交際していた妻と入籍。次に派遣された利島で、妻との2人暮らしが始まりました。2人で島を一周する散歩に出かけたり、キャッチボールをしたりと、仕事以外の時間をゆっくり過ごすことができました。妻の妊娠がわかったのも利島で、診療所の超音波検査でおなかの赤ちゃんの心拍を何度も確認したことをよく覚えています。
3番目の派遣先となった小笠原諸島の母島は、長男も一緒の3人での生活でした。母島までは東京・竹芝から船で24時間かけて父島に着き、そこからさらに船を乗り換えて2時間かかるので、「日本でいちばん遠い離島」といわれています。昼休みには自宅に帰って親子3人でごはんを食べ、診療が終わる17時以降に家族で夕日を見に行くのが日課になっていました。公園などでうちの子が遊んでいると、島の子どもたちが息子の面倒を見てくれたりして、子育てにもとてもいい環境でした。
いずれの島でも、地域に必要とされ、頼られている実感がありました。この4年間の離島勤務で、医師としての覚悟と、人とのつながりの大切さを身をもって学ぶことができたと感じています。
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離島から福島へ。クリニック開業を決意した理由
――福島への移住を決意したきっかけは何でしょうか。
山下 離島勤務を終えたころ、私のキャリアの次のステップとして、「小児科専門医」の取得をめざすことにしました。そして将来的には医師がたりない地域で、離島で得た経験をいかしながら働きたいという思いが募りました。東京の都市部にも小児科の仕事はありますし、以前の研修先からの誘いもあったのですが、都市部は医師の数がたりている分、離島での総合診療の経験をいかす機会がなかなかないだろうなと思っていました。
そんなタイミングで2017年に、日本小児科学会を通じて、福島県相馬市の公立相馬総合病院で休日救急診療の日直医を担当する機会がありました。私の妻の地元が、まだまだ復興の途上にある近隣の浪江町だというご縁もあって、初めて相馬市を訪れました。
そのときに、福島の相双地区(相馬市、南相馬市、相馬郡および双葉郡の12市町村)での小児医療の厳しい状況を耳にしたんです。とくに南相馬市では、市内唯一の総合病院(南相馬市立総合病院)に小児科医が1名しかおらず、震災後にずっと入院医療が再開できていませんでした。また、お産後に、生まれた赤ちゃんに何かあった場合は、小児科医ではなく産婦人科医が中心に対応している状況だとも聞きました。
その話を聞いて、もともと妻が地元に戻りたいと考えていたこともあり、南相馬市への移住を決意しました。そのときはまだ離島での勤務と、小児科専門医の資格を取るための研修が残っていたので、それらが落ち着いてから準備を整えて、2021年4月に家族全員で福島に移住しました。
――移住後はいかがでしたか。
山下 私と同時期にもう1人先生が入職したことから、総合病院の小児科医が3人体制となり、小児科の入院病床が10年ぶりにようやく再開されることになりました。お産についても、何かあったときには新生児に必要な処置を小児科医が行えるようになりました。
――山下先生の移住をひとつのきっかけに、南相馬市の小児科の医療体制が大きく改善したのですね。
山下 ただ、勤務するうちに、新たな課題も見えてきました。南相馬市には小児科クリニックがなかったんです。震災前には市内に2つの小児科クリニックがありましたが、震災による人口減少や経営の難しさから、再開には至らなかったそうです。私の勤務していた総合病院では複数の業務があるため平日午前しか外来には対応できず、子どもを連れて片道30分くらいかけて20km離れた隣の相馬市のクリニックまで行く患者の子どもたちと家族の話を、病院勤務のなかでたびたび見聞きしていました。
「南相馬市には小児科クリニックが必要だ」と考えるようになったのが、私のクリニック開業のきっかけです。いずれ開業するにしても10年後くらい先を想定していましたが、総合病院で私の後任になる先生とのつながりも得られたことで、2024年6月の開業を決断しました。
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地域を支える、小さなクリニックの大きな役割
――クリニック開業後、地域の方々の反応はいかがでしたか。
山下 これまで遠くの相馬市まで通っていた患者さんが、「近くで診てもらえるようになって助かる」と受診してくれるようになりました。中には定期的な通院が必要なアレルギーやぜんそくを抱えるお子さんもいて、移動の負担が減ったことに感謝の声をいただきました。
また、震災以降、南相馬市ではお子さんの風邪などの症状に対して地域の内科の先生方が対応することもあったのですが、開業後は「スマイルクリニックのほうにどうぞ」と先生方から紹介いただくことも増えました。顔見知りの先生方が患者さんのことで直接連絡をくださることも多く、地域の役に立てているのかなと感じています。
――地域医療にかかわりたいという夢がかなって、本当によかったですね。
山下 「なんでも相談できる医者になりたい」と模索してきましたが、現在のクリニックでは小児科の診察や育児相談など、お子さんにかかわる困りごと全般やつき添いのご家族の診療にも対応しており、地域の方々に頼りにしていただける存在になれているのかな、と感じています。
妻の地元に近いというご縁で南相馬に移り住みましたが、夏は暑い期間が短いので過ごしやすいですし、冬も雪がそれほど積もりません。地域の人もあたたかく迎え入れてくれて、今ではすっかり居心地のよさを感じて大好きな場所になりました。ここでやりがいを感じながら働けることをうれしく思っています。これからも頼れる存在であり続けられるよう、地域の子どもたちとご家族を支えていきたいと思います。
お話/山下匠先生 取材・文/武田純子、たまひよONLINE編集部
「なんでも相談できる医師」をめざし、地域の人々を支え、同時に見守られながら歩んできた山下先生。取材を通じて、あたたかい人柄と、地域に寄り添いたいという真摯な思いが、ひしひしと伝わってきました。後編ではクリニックの具体的な取り組みや、地域への思いについて聞きます。
「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。
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山下匠先生
PROFILE
1985年東京都足立区生まれ。2011年に自治医科大学医学部医学科卒業後、研修を経て東京都の離島(新島村、利島村、小笠原村母島)の診療所に勤務。2021年に南相馬市に移住。南相馬市立総合病院の小児科での勤務を経て、2024年6月にはらまちスマイルクリニック開業。3児の父。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2025年5月の情報であり、現在と異なる場合があります。
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